パニック障害のきっかけと治療 乗り越えて人生の幸せを得た

シニア

61年の人生の中で一番辛かったのは、妊娠中にパニック障害を再発したことです。そして人生最高の喜びはその時に宿していた息子を育てたことでした。発症のきっかけは「3階級特進」「引越し」「母の急死」が重なったこと、覚悟の妊娠にもかかわらず再発して苦しんだけれど、その後28年間を積極的に幸せに生きてこられました。将来や、特に妊娠・出産への不安を抱える方への励ましとなれば幸いです。

パニック障害発病のきっかけはキャリアアップと引越しと母の急逝

1988年単組の虎の病院職員労働組合(当時の組合員数七〇〇人)から
産業別労働組合の日本医療労働組合連合会(950単組、組合員数一七万人)へと
ステップアップし仕事の希望に燃えていました。


長女が4歳で保育園に通っていましたが、
勤務地と始業時間が替わるために19時まで延長保育のある園に転園せざるを得ず、
それに伴い引越しを余儀なくされました。

加えて、転職直後の二十九歳のときに
たった三か月の闘病の末母を亡くし、そのショックからパニック障害を発症しました。


ただ、この時は服薬と充実した仕事のお陰でほどなかく回復しました。

夫婦ともにやりがいのある仕事に就けたのだから、
娘と三人家族で仲良くがんばろうと考えていました。

覚悟の妊娠にもかかわらず、妊娠中にパニック障害を再発と原因

しかし、仕事が一段落し、自分でタイムリミットと考えていた(下記に注)
三十五歳を目前にしたとき、
子ども好きな夫への結婚十年目の感謝を込めたプレゼントとして
第二子出産の決意をしました。

覚悟の妊娠だったにもかかわらず、私はパニック障害を再発してしまいました。

妊娠中のため薬も飲めずに私の60余年の人生で最も辛い時期となったのです。

どこからともなく理由もなく襲ってくる、
居ても立ってもいられないという気持ち、
正気を失ってしまうのではないかという激しい不安に苛まれました。

そのために、一人で居ることやいわゆる乗り物恐怖、
いつでも降りることができないという理由で電車に乗ることができなくなりました。

私の職場まで夫に送ってもらったり、
一人になることが不安で夫の出勤時に行かないでくれと泣き喚くという修羅場もありました。

夫の学校の前の公園でけやきの葉が散っていくのを
日がな一日眺めながら帰りを待っていた十一月頃、
学校の近所に住む同僚が日中お宅を貸してくださることになり、
そこが出産までの私の居場所になりました。

読書や勉強をする体調ではなく、
クロスステッチ刺繍をして過ごしていたために、
息子が生まれたときには素敵なクッションカバーが五つもできあがっていました。

精神科医には理解されない、聞かれもしなかった仕事と妊娠・出産の葛藤

4年前の発病のときから主治医は代々木病院の中沢正夫氏でした。

長女のときは結婚したら次は子どもという自然な流れのなかでの出産でした。

仕事との関係においても、初めての育児への緊張と働き続けることに日々が精一杯でした。

しかし、それから十年後に息子を身ごもったときは、
一段落したとはいえ直前まで第一線で仕事をし、
それなりの成果を上げたと自負していた自分が、
妊娠したからと一歩退くことは、体調の変化とともに大きな葛藤でした。

自分自身で決断しての妊娠にも関わらず、
どこか何かが納得できずにまさに葛藤そのものでした。

看護婦(当時)の労働条件と地位を向上させるためのため活動は、
全国的に広がりマスコミに大きく取り上げられ、
国際シンポジウムを開催するなど、日々マスコミ対応に追われました。

看護婦確保法を成立させる際には、
国会や議員会館、与党の勉強会で議員に面会するなどバリキャリ派でした。

それが妊娠したとたんに「配慮」の名のもとに担当が変わり、
何より「配慮」を必要とするつわりや微熱という体調の悪化に悩まされ、
ゆるキャリを余儀なくされました。

不思議なもので、長女の出産前も
青山のアパレル企業でキャリアウーマンを気取っていたのですが、
結婚直後の妊娠は妻らしさや女らしさへの憧れが勝ち、
太っていくことさえも生まれて初めて
自分が丸く優しくなっていくようで嬉しかったのです。

ところが、子育てしながら再び掴んだ立場は、
妊娠による体重の増加さえも一時的なことと判っているはずなのに、
おしゃれから遠ざかる焦りや寂しさを感じました。

仕事を続けながら子どもをもうけた女性の多くは、
「こんなはずではなかった」と思うようです。

その中味は職場の反応や夫の対応など千差万別ですが、
いろいろと今までとは違ってくると想定はしていたにも関わらず、
想定外の事態が起こりうるということでしょうか。

私の場合は長女のときは初めてで楽しめた変化が、
二度目の長男のときには想像できたはずなのに、
想定外の事態にまで陥ってしまいました。

必ず良くなる時が来ることを信じ日常を取り戻し新たな挑戦も次々と

産院を退院した初日に出勤した夫を追いかけたり、
小学校4年になっていた長女に一緒に居てもらったこともありましたが、
次第に落ち着きました。

授乳中も薬は飲めませんでしたが、
4カ月でミルクに変え、薬を多少服用し、
出産から5カ月後には職場復帰出来ました。

このようにやっとの思いで産んだ息子ですが
私たち家族に想像以上の豊かさと喜びと希望をもたらしてくれました。

美容院や歯医者も少しずつ平気になり、映画も楽しめるようになりました。

その後、社会保険労務士試験の模試や
息子が中学受験へ入塾した時(中学受験スタートの覚悟と緊張)に
ふと不安に襲われましたが、薬を服用していたので大過なく過ごせました。

いつの間にか、朝一錠をお守り替わりに飲むだけで、
中学受験当日や仕事の出張も平気になりました。

50代で始めたマラソンは、5㌔、10㌔、ハーフマラソン、30㌔と距離を伸ばし、
56歳で横浜フルマラソンを5時間3分で走ることができました。

パニック障害や不安障害を経験された方ならご理解いただけるでしょうか、
未知のコースを走れるようになる不思議を。

ただ、コースマップや薬は必ず携帯していましたが。

自分を追い込み過ぎないように、心身の声に耳を澄ませば普通に生きていける

初めての発作から既に32年が経ちましたが、
今でも薬の携帯はいつでもどこでも忘れないよう、
災害時の備えも兼ねて3カ所に保管しています。

一病息災の気持ちで心身の声をよく聴きながら、
楽しく還暦を超えることができました。

今、なかなか自分が思うようにならずに
辛い気持ちの方もいつかきっと、治るか、
自分なりの発作や予期不安との付き合い方をみつけられると思います。

(注)「高齢出産ウィキペディアより」
日本産科婦人科学会は、35歳以上の初産婦を高年初産婦として定義している。
1991年以前の定義では30歳以上の初産婦であったが、
30歳以上の初産婦が増えたこと、WHOをはじめとする諸外国でも
同様の定義がなされていることなどから、35歳に引き上げられた。

初産が24歳だった私は、経産婦とはいえ10年のブランクになってしまうことや
30歳はマル高と長年教わって来たので、母子の健康と安全を考え
タイムリミットとしていました。

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