結婚式を「マチズモ」(男性優位主義)を削って成功させるには

家族
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武田砂鉄氏の新刊「マチズモを削り取れ」が発売2カ月で4刷と好評です。

よくぞ書いてくれた!という事実や考察の数々に溜飲が下がります。
しかし、六章の「なぜ結婚を披露するのか」は否定ばかりでちょっと残念です。

今年(2021年)の息子夫婦と1983年の私たち夫婦の結婚式は、
マチズモを削り取るように努めたので、具体的な方法をご紹介します

マチズモ、家と家の結びつきという考えをまず更新しよう

「所狭しと地雷が埋め込まれているスピーチ」や「定型」

は可能な限り除去、否、埋めないことができます。

そうした努力を当事者がすることこそが「マチズモを削り取る」ことではないでしょうか。

「1989年刊の「結婚マニュアル本」を捲ってみると、結婚式とは、家と家との契り」と読み取り絶句し、その認識は更新されていないのでしょうか?


とのことですが、
1983年の段階でも私たちは可能な限り更新しました。

そして、現在確実に更新されていることが2つあります。

私たちは「お色直しのために新郎新婦が中座ばかりしている」
批判が出始めたころだったので二人の写真は前撮りしました。
(当時は画期的なことでした)

でも、当日に一枚だけ「親戚一同が揃った結婚式写真」は当たり前のように撮影。

古い写真で見たことありませんか?新郎新婦を挟んで仲人さんと両親兄弟姉妹
上段にいくほど遠い親戚が勢ぞろいしている集合写真。

コレ、娘の8年前も息子のときもありませんでした。

また、仲人(私たちは夫の父がお世話になった方といういわゆる頼まれ仲人)は
必須だったのにもう何十年も前に消滅しています。

仲人と親戚集合写真、確実に更新されました。

招待状は自分たちの名前でから始まる「マチズモ」からの脱却

招待状を自分たちの連名で出したら
「こんなのが届いても誰からの招待状だかわからない」と怒られた1983年。
(イヤ、わかったから来るんでしょ。まさにマチズモ)

「私たち自身を知らない人なんか呼ぶ必要ない」とサラリーマン家庭の私は激おこだったけれど
小さくとも会社を営む夫の家庭では父親の取引先や友人関係を招待しないわけにはいかなかったとか。

息子からは相談じゃなくてこれは報告ですと、自分たちの名前で出すと連絡がありました。

事前に連絡があったのはこの時と中座のエスコートについてだけでしたが
わざわざ確認の連絡をして来たのは「○○家長男○○」や親の名前のケースが
未だ残っている証かと驚きました。

1983年はまだ珍しかった(今でも?)「人前式」で憲法24条が読まれ、婚姻届けに署名しました。

息子たちは新婦がキリスト教教育を基盤とする中高一貫校出身なのでチャペルでした。


招待者も息子夫婦の場合は、身近な親戚と上司・先輩だけで中高大の友人がほとんどでしたので
生い立ちからの動画も大うけで、新婦の人となりもさらによく知ることが出来ました。

挨拶は主賓のみ、余興は新婦が中高時代に打ち込んだ部活仲間のミュージカルに
途中から新婦が喜びいっぱいに歌い上げ、最後には新郎ともデュエットに踊りと
終始仲の良さに溢れていました。

最近流行のファーストバイトで新婦が新郎に食べさせるのって…と思っていたら
お互いに食べさせ合うスタイルでさすが、わが子なんて思いました。

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終盤恒例の新婦の手紙も例文集にあるような親への感謝だけではなく、
具体的なエピソード満載の中で感謝と尊敬を伝え、数々の出会いと感謝、
私たちへの想い、不安な情況な中での列席のお礼と、これからへの誓いと
3分44秒で全面展開、朗読も上手で式場のスタッフからも称賛されました。

締めの新郎挨拶は小道具まで用意して笑いをとっていました。

司会者の方に新郎様に全部持っていかれましたと言われるほどに。

どうして「入籍」って使い続けるの?選択的夫婦別姓にも悪影響なのに

従来、結婚式は「入る」ための儀式であり、入れたほうの家で行われてきた。

その名残である、現行の戸籍法には当てはまらない
「入籍」との言葉を問題視していないことは意外でした。

法律や言葉の問題に踏み込みと収集が付かなくなるほど
「マチズモ」だらけだからでしょうか。

でもやはり、スポーツ新聞の大々的な見出しに始まるマスコミはもとより、
結婚式をしない派でも慣用句として使っていないでしょうか。

そして、様々にこの章で述べられていることの根本だと思います。

やっかいなことに「選択的夫婦別姓」が理屈的としては決着がついていながらも
法制化できない否定的なイメージとして大きな役割を果たしていないでしょうか。

いちゃもんつけるより、マチズモを削り取れ、でしょう?

この章だけは「マチズモを削り取れ」という主題より、
未「婚」のKさんと式をしなかった武田氏が組んで
自分たちの個性に依拠していちゃもんつけてる感が強いと、
息子の挙式ボケ中の私には感じられました。

「家族同士の契り、親族どうしの契りが優先されていく」ってどこが?
相手の親御様へは感謝の気持ちはあるけれど、契った覚えは自分たちの時だってありませんけれど。

定例✖定例✖定例✖定例✖定例✖定例✖定例=結婚式みたいな感じになり、

その掛け算の間にオリジナルを挟み込む。

逆に出来ますよ、いくばくかの逃れられない定例を一つ二に。

抜本的な構造改革は行われていない

って、いうより自分たちで「マチズモを削れ」って思いますけれど。


また、感動してしまう自分が怖いなら、社会の認識の更新を待つのでなく、
自分たち当事者が変えればいいだけなのに、
マニュアルとか周りとか「今どきの若い子」過ぎて呆れます。

他の章での問題点は個人ではどうしようもないことが多くありますが、
結婚式は数少ない自分が当事者であり、決められる立場です。

多少の反対にあっても、それを二人で乗り越えていく過程は
パートナーをより知る機会にもなります。

怖がっていないで、自分ならこうするというプランを想像、
シミュレーションする場にしてはいかがでしょう。

それでもやはり人生の大きなターニングポイントであるかのような
ニュアンスがそこには相変わらず残っているからだ

誰かを人生のパートナーとして選ぶ結婚は
数少ない主体的に選べるターニングポイントではないでしょうか。

人生には誰にでもいくつかのターニングポイントがあるけれど、
やむを得ない場合のほうが多い気がします。

「虚飾の限りを尽くすこと」が「結婚披露宴の本質」、
結婚式とは「ただの喜劇じゃない、最大出力の喜劇」などと、
刺激的な提言がつづき最高な読書体験だったと
小谷田奈月さんの小説「神前酔狂宴」の感想を述べるKさん。

私は数々の友人の結婚式で
「彼女らしいなぁ」「ますます努力しててスゴイ」など
卒業してから結婚式までの人となりや発展をしみじみと感じただけです。

「女性ながらだれでもがときめくはず」といった文言にいちいち顔をしかめえるKさん。
「等身大の二人が迎える晴れの日」といった文言にいちいち顔をしかめる武田。

公共広告なら顔をしかめるけれど、結婚式場のパンフレットですよ。
虚飾の反対語の等身大でいけない?ってこの辺りになるといちいちツッコミたくなる。

オリンピック婚いいじゃない、パンデミックがなければ海外からの観光客も大勢いて
祝祭感に包まれた東京で、オリンピックの雰囲気に触れたい人だって大勢いる。
酷暑でフォーマルな格好がお嫌な方には更衣室がございます、
バスケ婚いいじゃない、ウチの息子は日能研婚ですよって感じ。

結婚式=マチズモ と定義し、どこまでもそれを保持、そして拡張していっていいのだろうか。
と、抜本的構造改革を望むのはラディカルフェミニズムの香りが漂ってしまいます。

結婚式は自分で「マチズモを削り取れる」貴重な機会、使わない手はない

マチズモの「あぶり出し」に大成功しながらも
もっとも「削り方」が個人によって可能な部分が大きい
「六章 なぜ結婚を披露するのか」で「しなかった」武田砂鉄氏は
「削り方」への言及がないことが残念です。

本書の任ではないとは思いつつ、はびこらせてきた原因の一つに
当事者が「削り取る努力をしてこなかった」ことが大きいと思います。

「出来ることはする」観点から考えてみませんか。

社会に残存するマチズモって「これまでもそうだったんだから、そうでなければならないと押し付ける」という行為と実に親和性が高いから、結婚にまつわるあれこれでは、マチズモが発芽しやすい。

当事者が「私たちのため」と断言しても、頷かない人が出てくる。

結婚も結婚式も(披露宴を含む)も「したければすればいい、したくないならしないでいい」が唯一の正解である。


結婚は本人の人生そのものだから全くその通りだと思います。

しかし、「唯一の正解」に基づき「しなかった」武田氏自身の思い出にある
「結婚式って、親のためって言うじゃない⁉」との約一割に賛同したいと思います。

ただし「式をあげることは親孝行」だけれど
親は一切の口出しはすべきでないと思います。

なぜなら、「大人の新郎新婦が自分たちで」行うものだからです。

招待者の顔ぶれも人数さえ、前日に席次表を見せてもらうまで知りませんでした。

新郎新婦が、式場のウエディングプランナーのアドバイスを受けながら
全てを決めて、準備しました。(ただ一カ所を除いて😅)

「親の心子知らず」状態は未だ子どもの証拠じゃない?

子どもたちが思春期を迎えて「一人で大きくなったような顔」
をするたびに思い出していたことがあります。

私の結婚式が終わって実家に帰った弟の
「帰ったら親父たち姉貴の子どもの頃からのアルバム見てんの(笑)」
との報告に「うそ~(笑)」と私は返したことを。

まさに「親の心子知らず」でした。

子どもたちが自立し、次はパートナー選びか…という頃になると
リアルに「結婚式の後はアルバム見るよね~、見ちゃうよね」
と夫と語り合って来ました。

実際には「生い立ちから今日まで」的なスライド製作のために
写真提供の要請があり、事前の選定作業になりましたが。


コロナ禍の中、二度の延期を余儀なくされ、
親としては内心もう少し世の中が落ち着いてからでも…とまで思った末の
結婚式でしたが、決行してくれた本人たちと
出席してくださった皆さまに心から感謝しています。

結婚式がなかったらわからなかった新郎新婦の姿

何よりも二人の自然な姿を垣間見ることが出来たことを嬉しく思いました。

息子があそこまでひょうきんで笑いをとろうとするタイプとは知りませんでしたし、
就職3年ですっかり営業マンらしくなっていました。

十代半ば以降、親にそうそう自分の外での顔なんて見せませんものね。

新婦の思いっきり元気で明るい様を見て、
家族ぐるみの長いお付き合いとはいえ私たちの前では
「それなり」の振る舞いをされていたのだと気づかされました。

だから、もっと「気を遣わせせてしまう」ことには気をつけないといけないとと、
決意を新たにしました。

親には親の役割や思いがある

入社以来、遠い赴任先で初めての一人暮らしを支えてくださった上司や先輩、
親以上に人格形成に影響があったであろう中高大の仲間たちにお礼のご挨拶をすることが出来ました。

中高の友人は試合の応援や家の行き来で知った顔ばかり
スライドショーで赤ん坊の息子を抱く姿のキャプション「何かとやらかす純子」に笑いが😅

10年ぶりの再会であのやんちゃな子たちが
それは立派な社会人になっており感慨ひとしおでした。

これは本書の問題提起の役割りを担っているKさんの
「ほぼ言葉を交わしたことのない新郎新婦の両親に、
なぜ瓶ビールをお酌してもらわなければいけないのか」という突っ込みへの応えです。

蛇足ですが、息子が母校の高校アメフト部のコーチをしていた時のこと
「選手のお母さんたちがスゴイ親切で、差し入れとかお世話になった」と、
さも初めて知ったことのように言うことにこちらがビックリでした。

「私たちもやってたわ‼」と、保護者のバックアップは
詳細な記録ノートがあって代々申し送りされていること、
会計担当のN君のお母さんはマダムなのに、
部費の支出に際しては一円でも安く購入しようと努力してくれたこと、
先生やコーチのお昼の用意もしていたことを伝えました。

結婚をしないのも、子どもを持たないのも自由ですが、
その分想像力を駆使しないと謙虚さや感謝を知る機会を
多少なりとも失っている可能性は否定できないと思います。
(もって回った書き方ですが、そうしないと矢が飛んできそうなので)

「してもいいし、しなくてもいい」という言い方は第三者としては正解でも
当事者にとっては「するか、しないか」の二択でしかありません。


二択で迷っているならば
マチズモに疑問を持ち、保持することが嫌ならば、
削り取りながら挙げることは可能です。

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