著者の武田砂鉄氏は痴漢について、拉致や強姦から引き算して、未遂に終わったから
「大事に至らなくてよかった」と相手を思いながら言ってしまうが、
それはもう「大事に至っている」と見出しにつけています。
痴漢という犯罪を軽くみたり、減らす努力が足りないことの根っこに
「マチズモ」があることを解明し、解決策まで提示しています。
「男だって大変」に逃げてはいつまでたっても溝は埋まらないから
相次ぐセクハラ事案に対し、ひとまず頷きながら、頷くとほぼ同時に「でも」と言い、「でも、男だって大変だよ」の一言を添えてみると、あら不思議、なぜだか元通りに戻っているのである。元通りとは、もちろん男女平等ではなく、前章で記したように「男、めっちゃ有利」である。
「男だって大変」を真面目に掘り下げて考察して、
男性学まで学べばそこに「マチズモ」が存在し、
共通の敵が見つかるのに残念なことです。
男の大変さを理解していないわけではなく、表裏一体であることを知ってほしいと思います。
幼少期の「男の子だから泣いちゃだめ」に始まり
男のメンツ、大黒柱などなど「男だから」と背負わされていることの理不尽さに気づいてほしいです。
また、本当に悲しいことに現実の生活の苦しさからか
「レディースデイ」や女性のほうが金額が安く設定されていることを
逆差別だという男性も増えている気がします。
雇用や給与水準の知識や店の戦略など、もっと考えてみてよ、と思いますが
お互いに社会の仕組みを理解して手を携えましょう。
痴漢という犯罪の認識をあらためないと、無くならない
さて、第二章のテーマは「痴漢」です。
第一章の内容を「すばる」に掲載後、Kさんによると
一番白熱し、怒りのエピソードが止まらなかったのは
電車通学/通勤中の痴漢だったそうです。
本書には被害が記述されていますが、私はKさんの
「汚らわしい体験って、言葉にしたくないですから」にふと胸を衝かれました。
私は45年前にそれほど混雑していない地下鉄丸の内線の社内で
コートと制服の間に体液をかけられた経験があるからです。
試験期間中で、車内で立ってテスト範囲の漢字の復習をしていたので
まったく気が付きませんでした。
学校でコートを脱いだ時の驚きと恐怖に身がすくみました。
見たこともない白い粘液が手につき廊下の水飲み場で必死に落としていました。
テスト開始で、担任が通っても伝えることができませんでした。
一番好きで尊敬する女性教師に何故あの時に訴えなかったのか、
心が固まっていた感じでした。
家に帰って、リビングの椅子に制服とコートを投げ出し、
母に「洗って!」と言葉少なに言いました。
母も「キレイにしたから大丈夫だから」とだけ、
泣いている私にそれ以上かける言葉がなかったのでしょう。
見出しに「それは大事にいたっている」とつけてくれた武田砂鉄氏とKさん
に応えたくて初めて口に、文字にしました。
痴漢がなくなれば、痴漢冤罪もなくなるという当たり前の理屈を
武田砂鉄氏は痴漢出没が多いとされる朝の埼京線に3日間乗車し、満員電車を体感します。
痴漢冤罪もあるよ、という男の主張は、なぜ、痴漢がなくなれば痴漢冤罪もなくなるという、皆で団結できそうな目的よりも優先さてしまうのだろうか。
これも「男だって大変」と同じメカニズムでの回避に他なりません。
でも、これで回避されてしまう、できるのが「数」のせいなのではないでしょうか。
マスコミ、文壇、論壇、警察、司法、の中に30%の女性がいれば
このように幼稚で雑な言説で終わるわけがないと思います。
結局、組織の中でマイノリティだからこそ、
声を、痛みを発っすることも出来ず、黙殺されてしまうのです。
わきまえることを要求され、発言すれば「長い」と言われ、男同士同調する。
今すぐできる「痴漢を亡くす方法」車内液晶モニターでストレートな警告を
朝の埼京線乗車の体験から具体的な解決方法を提案しています。
「不審物や気がかりなことがありましたら…」の抽象性に怒って次のように提案してくれています。
お金もかからず各鉄道会社がマチズモ「意識」に気づきさえすれば可能です。
社内のアナウンスや液晶モニターに、具体的な音声や文字で「痴漢」という言葉を用いるべきではないか。該当しない人間には少しも不快ではない。確実に日々起きている犯罪なのだから、痴漢という具体的な文言を出して周知すればいい。それをためらう理由とはなんなのか。
ためらっているというより、気が付いていない、思い至っていないのではないかと推測するのですが。鉄道捜査官(は架空で実際は鉄道警察隊)の沢口靖子さんから提案してくれないかしら。
さらに警察庁の2016年痴漢対策キャンペーンにも正論をぶつけています。
「被害者となる女性の警戒心を高めるとともに、電車内の痴漢撲滅の社会的機運の醸成に努めること」とあった。本音が透ける。そうだ、女にもっと気をつけてもらおうぜ、と続く。おかしい。もっとも大切なのは「被害者となる女性の警戒心を高める」ではなく、「加害者となる男性の邪心を抑え込む」ではないのか。
そして、力強く「男性は性欲を爆発させる可能性のある生き物だという前提に同意しない」と。
これについては、ボーヴォワールが著書「老い」の中で
フーコーがセックス(生物的)とセクシュアリティ(心理・社会的)を分けて、
セクシュアリティは文化と歴史の産物であると論じ、
性は自然科学ではなく、人文社会科学の研究対象に変わり、
性について語る際に、「本能」と「自然」という言葉は禁句となった
と、述べています。
この章では最後に、通報件数と容疑者の逮捕件数が30%以上も増加した
2015年のイギリス鉄道警察の痴漢取締りキャンペーンを詳しく紹介しています。
マスコミ業界の「マチズモ」が解決を遅らせている
文学の世界に近いと思しき新聞記者が、「最近、文芸誌がフェミニズムばっかりやってっけど、男と女は半分づつなのにおかしいよ」と強い口調で言った。男と女は半分づづなのにおかしいよ、という、驚いたしじみが殻を閉じそうになるほど鈍重な意見は、残念なことに、この国の酒場、あるいは職場、そして論壇を盛り上げ、文壇を持ち上げ、マチズモの屋台骨になってきた。主張する女の発生と、その声のボリュームにやたらと敏感で、いよいよ大きくなってきたと判断すると、いや、男もいるよ、半分いるよ、もはやこっちが少数派だよと騒ぎ始める。
もう、首が折れるほど頷いてしまう女性は多いのではないでしょうか。
その場の雰囲気ややたらと敏感なところとか、加えるなら言い出しっぺに対し
「よくぞ言った!」的な同調で盛り上がっていく様が見えるようです。
そもそも新聞記者に限らずジャーナリストってジェンダーギャップに本当に鈍感で
「ジャーナリスト」と名乗ったらそこには当然のように
「マチズモ」が表裏一体でくっついているような気さえします。
「マスコミ」に所属することがエリートとされていたころの名残りでしょう。
「マス」から離れて、孤軍奮闘して頑張っている方でさえ、
ちょくちょく「マチズモ」発言をするので、ぜひこの一冊を服用してほしいです。
夜討ち朝駆けを自慢しているようでは時代遅れだと指摘したら
裏垢で上から目線のリプしてくる朝日新聞記者もいました。
それでも、新聞記者やテレビ業界で「育児休業」を取得し
自らの経験をもとに取材し、記事を書いたり番組を作ったり方が出て来ています。
遅れた業界だからネタになると思うのかもしれないけれど
ジャーナリストの変なプライドも見え隠れしいます。