ますます可愛くなる、わが子という存在の不思議
私もわが子を持つまでは「子ども」に対して苦手意識のほうが強かったものでした。
乳児だったころ、娘は私の腕の中にすっぽりと抱かれ、
ぎゅっと小さなこぶしを握っていました。
その頃は一歳児の、
お母さんとつないだ手がとても大きく見えたものです。
このもみじのように小さくて柔らかな手が
あんなにしっかり大きくなってしまうのかと思うと、
ちょっぴり悲しくなりました。
一歳になると言葉を理解しようする様が可愛らしく、
やがて覚え始めるとあっという間に言葉があふれ出しました。
夫との会話だけだった家の中に、
突然娘が入ってきたときの驚きと喜びは今でも鮮明に覚えています。
一方、異性である息子の成長は、戸惑いが先に立ちました。
それでも三歳になると、一人前の顔をして、
一生懸命大人とおしゃべりしようとするのです。
そんな息子との会話は、それはそれは楽しいものでした。
でも、保育園で年長さんの男の子同士の戦いごっこを目にするたび、
その激しく乱暴な様子に驚き、
いつまでもあどけなく優しくいて欲しいと願わずにはいられませんでした。
通園期間も残り少なくなったころのこと、
親と一緒ではなく、一人で通う小学校への登下校は大丈夫だろうかと
心配とさみしさがないまぜになったようなことがありました。
園内では元気いっぱいに暴れていても、
行き帰りには私の手をしっかり繋いでくる。
その小さな手は、柔らかく暖かでした。
その感触を確かめつつ、
道草しながら二人の時間を惜しむように、ゆっくりと歩いたものです。
隣をギャングエイジの小学生の一団が自転車で駆け抜けるのを見て、
じきに親の知らない世界を持つようになるのかと寂しく思いました。
学校から帰るなり遊びに飛び出していくようになった小学生時代は、
親よりも友達が大切になり始めた時期でした。
それでも、遊び疲れたときや、友達と上手くいかないとき、
そっと寄り添ってきては甘えるのです。
女子校育ちの母は、やがて訪れる男子の思春期など想像もつかず、少し怯えていました。
息子の中学校の入学式、
背はまだ母よりちょっぴり低くて、
だぶだぶの制服姿も初々しくはにかんでいました。
迎えてくれた上級生は、
一まわりも二まわりも大きくて声変わりしたかすれた低い声、
男くさくてなんだか怖いような気がし、子離れを決意しました。
桜吹雪の中、
コブクロの「桜」の歌詞が繰り返し私の耳には鳴っていました。
特に「また大人になった」や
「届かぬ思い」という言葉は親としての喜びと悲しさに重なり、陶然となりました。
主人公補正ならぬ、母親補正は偉大
高校生になった息子は
父親の背丈もはるかに超え、にきび真っ盛り、
アメリカンフットボール部員としての日々の練習のために、
筋骨たくましく日焼けして真っ黒になりました。
そんな「男」になりつつある息子は、
時に無口に、時に批判的な物言いをするようになりました。
それでも、こんな場面もありました。
一緒にアメフトの試合を見ていたあるお母さんは、
激しくぶつかり合い転んだ息子さんを見て
「あの子、立ち上がれるかしら…。だっていつだって転ぶと泣いてたのよ~」
とつぶやきました。
私は「わかるー」と応えました。
母親同士だからこそこんなバカバカしいような会話も成り立つのです。
どんなに大きくたくましくなっても、
母親には小さく愛しかった子ども時代が見えているのです。
そして高校の卒業式。
初めてのスーツ姿でにこやかに私のとなりに立つ息子を、
私は頼もしく感じながらも眩しく見上げていました。
謝恩会で上映された、
息子たちの赤ちゃんの姿、
それから親には見せなくなった笑顔で友人たちと集う数々の写真。
BGMは平原綾香の「おひさま」でした。
「あなたは私の奇跡 あなたは私の希望」とは、
まさに母親にとっての息子という存在を言い当てていました。
「お願い どこかで笑ってて」は、幸せを願う気もちであり
「それだけでいい それだけがいいのよ」には、
親離れしていく息子への遠慮と切実さがにじみました。
こうした歌詞は、母親たちの気持ちにあまりにもぴったりで、
出席した二五〇人は号泣でした。
その光景に、
卒業式での校長の式辞はもとよりご挨拶で口々に
子離れの必要性を語っていらした先生方は完全に引いていました。
息子たちが通う麻布学園は、
私立の中高一貫校のなかでもかなり親離れしていると言われていますから、
母親の片想いであることはいうまでもありません。
親からの目線はこのように、
その時々のかけがけのなさを愛でていくものです。
この気持は親として共通のもので、
私の講演でも中高生の子を持つと思われる方々などは
大きく頷きながら、笑顔で聞いていらっしゃいます。
きっと義母も、還暦を過ぎたの夫のことをまだまだかわいいと思っているのでしょう。
子育てとは
すべての子どもたち、人間が愛おしく思えるようになるものであり、
自分を育てる営みでもあります。
これほど素敵なものもないのではないでしょうか。
主人公に都合よく進むストーリーを「主人公補正」と言うように、
子育てには親バカという「母親補正」があります。
何ものにも代え難いほど愛おしい存在だからこそ育てられるのです。
大丈夫「案ずるより産むがやすし」というでしょう。
これは本当です。
勇気をもって「保身バイアス」より幸せな未来を想像しましょう
もう一つ、子育てに踏み出すことを躊躇される理由には、
「今の自由を手放したくない」という「保身バイアス」があるようです。
人間は、今持っているモノのほうが
これから手に入れるモノよりも価値があると思いたがる偏向があり、
それを「保身バイアス」といいます。
たとえば、
子育てにより得られるであろう幸せは充分想像できるけれども、
今の自由のほうが自分にとっては価値があると考えてしまうのです。
今を大切にするといえば聞こえはいいですが、
保身バイアスの虜になって、
新しい世界を避けていたのでは人生はしぼむばかりです。
時は流れ、自分自身も日々変化していきます。
ある日突然、後生大事にしていたモノが色褪せないとも限りません。
自分の意志に反し、突然失われてしまうことだってあるのです。
人は成長し、老化する中で価値観や考え方も変化するものです。
やった後悔よりもしない後悔のほうが大きいとも言われています。
少なくとも、
産んで後悔したという女性や父親になって後悔しているという人に、
私は会ったことがありません。
子どもを育てる喜びと責任のなかにあっては、
人生に退屈したり、迷いすぎる暇はありません。
日々変化する子どもとの関わりは、
喜怒哀楽を通じて自分自身も成長するという生きる喜びに満ちています。
勇気を出して、新しい日々へ